工 春雄(通称たくちゃん)は、北日本新聞カルチャースクール・やさしい文章教室に通っている。 その文集「くるみ」に掲載された文です
彼は、、今回から、「今 畜生」と言う名前で投稿
我みられんが為に非 生きんが為にあるなり
今 畜生
1
書庫の薄明かりが届く先に、桐箱があった。箱を開けて軸の紐を解いて驚いた。そこには「玉葱と百合根」の絵が描かれてあった。不明になっていたため、探していた白樺派の作家、武者小路実篤の作品だった
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武蔵野の面影が残っている雑木林の中に武者小路実篤の自宅があった。書斎で下敷きに半紙を置き、「我みられんが為に非 生きんが為にあるなり」 と書き、玉葱と百合の球根も描いてもらった。
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わたしは、武者小路実篤の文学における足跡を知らなかった。
初めて訪問したのは高校生のときだった。
白樺派の画家が武者小路実篤に用事があり、両親と私が付いて行った。
東京、京浜線仙川駅は駅前がまばらで、小路を抜けると青々とした麦畑がつづいて、空には雲雀が天たかくさえずっていた。 10分程歩くと坂道になっていて、降りたところに小川があり、流れの先は雑木林になっていた。
ベランダが池に面しているヨーロッパ風のコンクリート造りの家だった。
玄関は2間ほどで廊下があり、書斎と和室になっていた。
先生は快く会ってくださった。鯉に餌をやりながら池の周りを一緒に楽しく散策した。
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2
父は、絵画を収集していた。 桐の箱に入れて大切に保管していたが、箱に作家の署名と印がないと、作品の価値が落ちるので、箱書きが必要だった。
東京に進学した私に、父は箱書きの用事を託したので、先生の家へ訪問の機会が多くなった。
先生に、人生について、生きることについて話を聞くことができた。
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3
社会にでたら生きる為の試練が待っていた。学生時代をのんびりすごした結果が、過酷なサバイバルだった。
就職できたのは、業界4ランクの自動車メーカーの販売会社だった。研修が終わると営業の配置になった次の日から販売ノルマが日々の生活を束縛していた。
経済力のあり売れる地区はベテランか実績のある社員、新入社員と販売業績の悪い社員は条件の悪いところで販売活動をさせられた。
ブランド名が高い車は、よいお客を確保していた。
車を売ることが大変だったが、友人、知人に買ってもらい、縁者への販売が尽きた。
大きな川は淀んで流れている向こう岸は下町だった。この地区はマチ工場が多く現場の作業員か職人がほとんどだった。 工場主と息子に売り込むしかなかった 買う条件は現金でお願いしていた。
車は少しずつ売れるようになっていた。私は、車が売れるようになったので、遊びや無理な交際をして、かなり金遣いが荒れていた。 それはバブルと呼ばれた時代で、長くは続かなかった。 そのころに結婚して、3歳の男の子と1歳の女の子がいた
車の売れ行きが悪くなったが、生活と遊び、交際は三重を張っていたので少なくすることができなかった。 それ以上に厳しくて、つらいのは車を買ってくれた人からの代金を回収することだった。
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ローン販売もないころだった。 銀行、信用金庫が頼りだった。 お客の車を買う人は金融機関があいてにしないような人になっていた。 割賦販売が条件のお客だった。 はじめのころは現金で払ってくれるが、支払いの回数がすすむとお金が入らなくなった。 この金を補うのに気がついたら、町金、消費者金融から金を借りていた。
この苦しい状況に、成績の悪い同僚が自殺した。 通夜と葬儀にでると、押さない女の子を抱いた奥さんとめがあった。 そのとき自分も電車に飛び込むのではないかと考えていた。次に妻と子供のことが目に浮かんでいた。
これではいけないと思った、見栄を捨てよう、両親と友人に相談して、地獄から抜け出ようと決心していた。
もうすでに、町金から脅かし、消費者金融から催促が激しくなっていた。
この苦しみが同僚を自殺に追い込んだのだと実感した。
両親と友人の援助で借金の目途がたった。
父からは農業を手伝いながら、つぎの職を探すようにとの条件があり、受け入れて、退社し、実家に帰ることにした。
妻は都会に未練があるようだったが、現状を包み隠さず話をしたので判ってくれた。
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田舎の森も田畑、雑草までも春風になびいていた。全てがいきていると感じて胸が熱くなった。
子供のころ手伝っていた農業をやり直す気がわいてきた。
「生きることからはじめよう」 この先は、そのとき考えよう
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